chapter.1 29歳のクリスマス(6)

然との出会いは、20歳の時。専門学校があった最寄り駅の前で、その日行われるライブのチケットを手売りしていた然に声をかけられ、チケットを買ったお礼と称してその日のライブ終わりに飲み会へ誘ってくれたことが、私たちの始まりだった。
それから割とすぐに付き合い始めて、くっついたり離れたりまたくっついたりを繰り返しながらも、なんだかんだで6年も一緒の時間を過ごした。
付き合っていた当初から『Leonardo.b』は活動していた。その頃は生活のほとんどを音楽に費やしていて、その日暮らして行くのもやっとなぐらいの生活の中で、必死に音楽をやっていた。
私は、その姿を誰よりも間近で見て来た。だから、彼らのデビューが決まった時は本当に嬉しかった。彼らの音楽が認められて、たくさんの人の耳に彼らの音楽が届いていることが、凄く、凄く、嬉しかった。
――――だけど、彼らの音楽活動を望めば望むだけ、二人の未来が不安になっていた。
その思いが焦りを生んで、最終的に然を困らせてしまった。



――――3年前。『Leonardo.b』の知名度は今よりもなかったが、それでも順調にCDの売り上げやライブの本数を増やしたりして、着実に“ミュージシャン”としての階段を上り始めていた。
然の休みがあるようでないような状態だった中、私は数週間ぶりに然と会うことになった。然が最近引っ越したマンションへ行き、手料理を振る舞い、二人には珍しく穏やかな時間を過ごしていたように思う。
食事を終えると然は、買ったばかりの望遠鏡を持ち出してきて、天体観測をしよう。と言いだした。
20代前半の頃に住んでいた壁の薄い小さなアパートの部屋とは違い、然の新しい部屋は夜でも明かりが消えないような賑やかな場所にあるタワーマンション。階数が上の方だから、星が近くに見えるかもしれない。と、寝室側のベランダに望遠鏡を設置。二人で望遠鏡を覗きながら、お互い持っている少ない天体の知識を話して天体観測を楽しんでいた。

「葉那知ってる?満月の夜に願い事すると叶うらしいよ」

然は望遠鏡を覗きながら、寝室のベッドに腰掛けてグラスに入っているワインを飲もうとしていた私に向かって言った。

「ホントに――?」
「ホントホント」
「でも、今日満月じゃないよね?」
「満月の日にまた一緒に月見てさ、二人でお願いごとしようよ」

20代半ばも過ぎた男が、月に願掛けする話を信じているのもどうかと思ったが、「覚えていたらね」と軽く流すように答えた。

「大丈夫。俺が覚えてるから」

そう言った後、望遠鏡から顔を離すと寝室の方を向いた。

「然は何かお願いしたいことあるの?」
「あるよ」
「なに?」

私の方を向いていた然は、再び背を向けて夜空を見上げると、両手を合わせて目を瞑り、「今度のホールライブが成功しますように……」と祈る。

「初めてのホールだもんね」
「ああ。ようやくここまで来たって感じだよ」
「だよね」

目をキラキラさせて喜びを噛みしめている然の顔を見ていたら、自然と私も笑みが零れる。

「初日は絶対来いよ」

その言葉に私は微笑み、「覚えていたら」と言ったら、「自分の男の大事な日を忘れんなよ」と返してきて、私は笑った。

「葉那は願いごとある?」
「ん――…そうだなぁ……」

“願いごと”と聞いて、真っ先に浮かんだ言葉があったが、それを然に言う勇気が持てなくて言葉が途切れた。
サラッと言えば済むのかもしれないけど、まっすぐな目で私を見て、バンドのことで頭がいっぱいの然に言えるわけがない。

「なんだよ。早く言えよ」

中々口を開かない私に痺れを切らせた然は、そう言いながら寝室へと入ってきた。
私の隣に腰掛けると、私が手に持っていたワイングラスを奪うように手に取り、グラスに残っていたワインを飲み干す。

「ないの?」
「あるような……ないような?」
「どっちだよ」

―――――― 少しぐらいは私のこと考えてくれてるって思ってもいい……よね?

然の顔を見て然と目を合わせると、口を開いた。

「…………結婚……とか?」

勇気を振り絞り言った言葉に緊張感と後悔が私を押し寄せる。
私を見ていた然の目が驚いたように見え、突然のことで何も言えなくなったのか、然はこの言葉に対して口を開かない。
お互い何も言わないから、気まずくて何とも言えない変な空気が二人の間に一瞬にして流れていた。

「――――ごめん。忘れて」

あまりにも静かな雰囲気に耐えられなくなった私は言った。
すると然は、いつもの雰囲気など微塵も見せずに、「結婚したいの?」と真面目なトーンで聞いてくる。

「…………そうなったらいいなって思ってる」
「そっか………」
「うん…………」
「……………」
「……………」

さっきまで二人で良い雰囲気で天体観測をしていたような甘い空気はもう1ミリも感じない。
何とも言えない気まずさだけが、二人の間に漂っていた。

「そっかぁ……。葉那は結婚したいんだ」
「……まぁ……」
「結婚なんか全然考えたことなかったな」

と、然は言う。
然のその言葉に驚きが隠せず、「考えたこと……なかったの?」と聞いた。

「ないない。バンドのことで頭いっぱいだったし」

然はそう言って軽く笑った。
その態度に私は、言葉を失くしてしまう。
自分の中でもわかってはいたことだけど、それを目の当たりにしてしまい、どうすればいいのかわからない苛立ちと、何とも言えない悲しみが混ざり合う。
これまで感じたこともないような変な感情が、胸の中で渦巻いて行く。

「そんなことより。ワイン、もう1本開ける?」

然は空になったワインボトルを手に取って言った。

「そんなこと……?」
「ん?」
「“そんなこと”って、どういうこと?」
「なに?どうしたんだよ」

そう言いながら、私の頬を軽くつまむと、「そんな怖い顔すんなよ」と言う。

「なるでしょ。6年近くも付き合ってるのに、結婚の話したら考えたことないって言われたんだよ?」
「そんなプリプリ怒んなよ。今度時間ある時にゆっくり考えとくから」
「なにそれ」
「今は仕事のことで頭がいっぱいだから、今度ゆっくり考えとくって言ってんだよ」
「……信じらんない」
「なぁ――、もうこの話やめない?せっかく久しぶりに会ったのに楽しくない話題だし」

然はそう言って、立ち上がる。

「このまま付き合って行くなら、そういうことも考えて欲しい」
「だから―――、今度ゆっくり考えるって言ってんじゃん」
「そう言って、然は考えないでしょ?いつも面倒くさいことは後回しにして、結局考えないじゃない」
「そんなことないよ」
「あるよ。何年一緒にいると思ってんのよ」

私の態度に嫌気がさした然は、「なに?なんなの?」と言い、「久しぶりに会えたのに、なんでそんな可愛くないこと言うんだよ」とあからさまに嫌そうな表情を出してきた。

「然が真剣に考えようとしてくれないからでしょ?」
「――――悪いけど。今何言われても結婚なんか考えられない。葉那だってわかるだろ?音楽でメシ食って行きたくて、生活犠牲にしてまで必死になってやっと掴んだ夢なんだよ。今はその掴んだ夢にしがみつくのに必死で、プライベートまで手が回らない。そんな状況で結婚考える余裕なんかあるわけないだろ。6年も一緒にいるなら、それぐらいわかれよ」

然の言葉がやけに私を逆なでているように聞こえる。
然がこういうことを言うのは、わかっていたはずなのに……
無性になんだかやりきれない。

「――――わかった」

そう言うと、私もゆっくりと立ち上がった。
然の顔を見ることが出来なくて、然から離れるようにそのまま寝室を出る。

「おい、葉那」

私の名前を呼び、後からついてくる。

「葉那」

リビングに入って来た然は、もう一度私の名前を呼んだ。

「今日は帰る」
「そんなに怒ることかよ」

然は私の腕を掴み自分の方へと振り向かせる。
私は思いっきり振り払い、「怒るに決まってんじゃん!私よりもバンドが大事だって言われたのよ?」と言った。

「別にそういう意味で言ったんじゃないだろ」
「然はそう思ってなくても、私にはそういう風に聞こえた」
「…………」
「…………」

お互い何も言えなくなって、重苦しい空気が流れる。
それに耐えきれず、ダイニングテーブルの椅子の上に置いていた鞄を手に取った。
すると然が、「葉那。帰るなって」と鞄を掴んでいる腕を掴む。
その瞬間に何かのスイッチが押されたかのように涙の粒が生まれた。

「…………私だって」

と、泣きそうになった感情を抑えながら声を振りしぼり言い、「ずっと然が頑張ってきたことを間近で見ていたから、バンドが今よりもっと活躍して欲しいって願ってるよ」と続けた。
だけど、その後に堪え切れなかった涙が頬を伝う。

「泣くなよ……」

頬に伝っている涙に触れ、然は言う。

「然が夢を叶えることを願ったように、私も自分の幸せを願いたい……」
「……………」
「今すぐ結婚してって言ってるわけじゃない。たしかな約束が欲しいだけなの……。嘘でもいいから、結婚するって言ってよ」

然の服の裾をぎゅっと掴み、「お願い……然……」と続けた。
然は止まらない私の涙をぬぐいながら、「そんな大事な約束を簡単には出来ない」と言った。
それが、然の答えのように感じた。



―――――二人の愛に終止符を打つ3ヵ月前のこの日。
“いつか”の夢が叶うと信じていた頃は、夢ばかり並べてもがき苦しんだけど、それでも希望があって笑顔もあった。
でも、“いつか”の夢を叶えた時。
私たち二人の夢がお互い別々なものだということに気が付いた。