二人の大切なもの(3)

イベントを1週間前に控えていて準備も大詰めになっていた。それと比例するように私の体調はピークを迎えていた。朝起きた時から…と言うか、気持ち悪さで目覚めることもあるぐらい吐き気が止まらず、トイレに駆け込んでいる日々を過ごしている。それでも仕事をしている時は気が紛れて多少改善されるが、夕方から夜にかけては1日の疲れもあるのか吐き気が襲ってくることもあった。それに、とにかく毎日頭が重くて気分がすぐれない。ちょっとしたことでもイライラしていることも多かった。

「ゆら。時間」
「ん……わかった」

トイレのドアを開けっ放しにしたまま、トイレの床に座りこんで壁にもたれていた私の元にやってきた恭介が出勤時間を教えてくれた。
座り込んでいる私を見た恭介は、「水持ってこようか?」と言う。

「ううん。いい……」

と、返事をしてゆっくり立ち上がろうとした時に、クラッと軽いめまいを起こしてしまう。
恭介がすかさず私を抱きしめるように支えると、「大丈夫か?」と心配そうに声をかけてくれた。

「ん……大丈夫」
「休めば?何もそんな辛い思いしてまで仕事行くことないじゃん。1日休んだってどってことないよ」
「でも、もう大丈夫だから」
「大丈夫じゃないから言ったんだけど」
「…………」
「こんな状態で仕事行ったら、逆にみんなに迷惑かけるだけじゃん」
「本当に大丈夫だから。図書館行ったらちゃんとやってるから」

恭介が私の体調のことを気づかってくれているのはわかっていたけど、何故かそれが私の癇に障る。
私を支えていた恭介の腕を解いて、私はリビングへと歩き始めた。

「仕事辞めてよ」

私の後ろから恭介は言った。
歩いていた足を止めてゆっくりと振り返ると、いつになく険しい顔をして私を見ている。

「なに……言ってるの?」
「ずっと様子見てたけど、ゆら限界超えてるだろ。この状態が続くならゆらにもお腹の子どもにも良くない」

私たちはお互い睨みあうようにじっとお互いの目を見た。

「やだ。仕事は辞めない」
「俺だってやだよ。ここは引けない」
「結婚する時に言ったじゃない。仕事は辞めないって。恭介理解してくれてたんじゃないの?」
「そう言わざるおえないようなことやってるからだろっ!」

恭介の怒りが頂点に達したのか大きな声を上げた。

「仕事することがそんなに悪いことなの?」
「誰もそんなこと言ってないだろ」
「言ってるじゃない!仕事辞めろってそういうことでしょ?」
「ゆらが明らかに仕事優先してるからだろ!いい加減自覚しろよ。ゆらが今一番やらなきゃいけないのは仕事じゃないだろ」

恭介の言ってることは間違っていない。
だけど………

「お願い……もう少しだけ待って。今週乗りきれば……」
「待ってる間に何かあったらどうすんだよ!今仕事がなくなってもまた新しい仕事は入ってくるし、失敗してもまた次で挽回すればいいだけだろ?だけど、今授かってる子どもはいなくなったらそれで終わりなんだよ?その子の代わりなんかどこにもいないんだよ」
「だったらその時はその時じゃないの?」

私たちは目と目を合わせてじっとお互いの顔を見つめる。
少し沈黙になった後、恭介は口を開いた。

「………マジで言ってんの?」
「…………」

私は恭介から視線をそらして顔を横向けた。

「母親がそんなこと言うなよっ!」
「母親になるなんて一言も言ってないっ!」

恭介は私の言葉に目を丸くして驚いている。
言葉を失くしていたのか少しの沈黙の後に、「おまえ……マジで何言ってんの?」と言った。

「産むなんて一言も言ってない」

言った後に苦みがした。

「ゆらがそんな女だとは思わなかったよ。今のゆらは最低だよ……」

いつもの明るい声じゃなく、ワントーン下がった声で静かに恭介は言った。
笑顔一つ浮かべず、険しい表情をしてまっすぐに私の顔を捉えているその目は怒りを表している。
ここまで恭介を怒らせたのは私だ。


静かなフロアで返却されてきた本を棚へと戻すという単純作業は何も考えないでいい分、朝の恭介とのケンカが幾度となく頭の中でレピートされていた。怒りに溢れていた恭介の顔が頭から離れない。普段はよく笑って優しくて、いつも私のことを一番に考えてくれている恭介をあそこまで怒らせたのは私。これまで恭介が怒るってことがなかったわけではないけど、あんな怖い顔して怒っている恭介を見るのは初めてで驚いた。私はそれぐらい恭介を怒らせるようなことをした。
私はキャリアウーマンを目指していたわけでもないから仕事を重視していたことは、実はこれまで一度もない。結婚しても仕事を続けたかったのは、母親のような専業主婦業が自分に向いているようには思えなかったし、不規則な仕事をしている恭介をただじっと家で待っているような大人しい女にはなれないと思ったから、仕事を続けたい。と言ったのが本音。―――だけど、好きな本に囲まれて仕事するのは嫌いじゃなかったし、年齢が上がるにつれてキャリアも増えて仕事が楽しくなっていたのも事実で………

「山田さん」

突然名前を呼ばれて、考え事から引き離された。
私の名前を呼んだ後輩の方を見たら、「お母様お見えになられてます」と言う。
受付前にいると言う母の元へ向かうと、母は受付横にある掲示板を興味深そうに眺めていた。
その母親の足元には大きな旅行カバンが置いてあった。

「お母さん。どうしたの?」

と、私が声をかけると母は、「ゆら。思ってたより元気そうじゃない」と微笑む。

それから私たちは図書館の中にあるこの時間使用されていない会議室に場所を移した。
来客用の湯のみでお茶を母の前に置くと、「図書館ってやっぱり静かで落ち着くわね」と言って、母は淹れたお茶をすする。

「そんなことより、どうしたの?そんな大きな荷物抱えて。旅行にでも行くの?」
「恭介くんから何も聞いてないの?」
「ううん…何も聞いてないけど……」
「今朝、恭介くんから連絡があってね、あなたのつわりがキツそうで食事もロクにしてないみたいだから、しばらく泊まり込んで側にいてあげて欲しい。って頼まれたのよ」
「うそ………」
「もう、ビックリしたわよ。妊娠したんならしたで連絡ぐらいしなさいよ。みずくさい子ね」
「ごめん。ちょっと忙しくて連絡出来なかっ………」

私の右目から涙の粒がぽろっと零れ落ちた。
今朝の恭介のあの怖い顔が頭から離れず、恭介に愛想つかされた。と思っていただけに、恭介の優しさに触れて涙が止まらない。
恭介は見てないようでいつもちゃんと見てくれているし、いつだって私のことを一番に考えてくれていて、どんなことがあっても私の手を離さない。
私はそんな恭介にあんな酷いことを言った。
恭介にあんな怖い顔をさせた。
ごめん……恭介……
ごめんなさい………

「……………あなたたちに何があったのか知らないけど、恭介くんのことだから、自分が仕事で家を空けてるのも気になってるんだろうし、つわりが落ち着くまであなたたちのところにお邪魔するわね」

泣いている私をただ黙ってしばらく見ていた母は、ハンカチを私の目の前に置いた。

「……ん……わかった」

母からハンカチを受け取り、涙と鼻を吹いて顔をあげて返事をした。

「先に部屋戻ってご飯作っとくから、鍵貸して」
「……わかった。持ってくる」

そう言って椅子から立ち上がった時にお腹に痛みを感じた。
じわじわくる痛みに動けず止まっていると、母は私を見て名前を呼ぶ。

「………ゆら?どうしたの?」

母の声は届いているが返事をする事が出来ず、崩れるように床におしりをつけて、お腹に手をあてて前のめりな姿勢になった。
母は驚いた表情をして、「ゆら!お腹痛いの?」と私を支える。

「……な……なんかわかんないけど……お腹…痛い……」

感じたこともないような重い痛みが襲う。
痛みを抱えながら、今朝恭介に言われた言葉が浮かんでいた。

『その子の代わりなんかどこにもいないんだよ』

ごめん……恭介。
恭介が守ろうとしていたこの子は消えちゃうかもしれない…………


うちの母親が騒いでしまって救急車を呼ぶほどの騒ぎになってしまい、救急車で行くほどの距離もない宇佐美産婦人科クリニックへと運ばれた。診察を受けたら、今のところ心拍は無事に確認は出来ているけど、出血も多少あることから流産する危険性があるとの診断が下った。そのため絶対安静という指示を受け、食事もロクに出来ていないことも考慮されて入院することになり、病室は見舞いに来るだろう恭介のことを考えて事情を話して個室にしてもらった。産婦人科クリニックというだけあってホテルの一室のような綺麗な病室で、とてもここが病院だとは思えない。
左腕に点滴をされて体を動かせない私の姿を見て、母は溜息を一つ落した後、「ゆら……もしかして仕事ばっかりしてたんじゃないの?」と、確信をついてくる。

「……………」
「だから恭介くん、心配して私に電話してきたんじゃない?」
「……………」
「それに―――母子手帳もまだ申請してないって……何考えてたの」
「忙しかったのよ。仕事が色々立て込んでて……」
「それでも普通は真っ先に貰いに行くもんでしょ。それを貰うことで母親としての自覚が芽生えるものなのよ」

母は、このバカ娘は……と言わんばかりの顔をして、もう一度溜息を落した。
何も言い返さない私に母は、「ゆら、もしかして……妊娠したこと嬉しくなかったの?」と聞いてきた。

「そんなことないよ………」
「だったらいいけど……。お母さんからはそういう風に映らなかったから心配しただけよ」
「…………」

それから1時間ぐらい母は付き添ってくれていたが、私の入院準備をするために一旦私と恭介のマンションへと帰った。
母親が帰ってしばらくの間、静かな病室の中で1人過ごしていると、時々どこかの病室から赤ちゃんの泣き声が聞こえてきて、その泣き声を聞く度にお腹の子どもが泣いているような錯覚に陥り、頭まですっぽりと掛け布団を被って聞こえないようにしていた。

自分が今日までこの子にしてきた罪悪感が消えない。
何度謝ってもきっと許してはもらえない。
母親になる資格はもう……ない。

ベットの中で泣きそうになっていた時、コンコンと誰かが私の病室の扉を静かにノックする。入院準備をして母親が戻ってきたのかと思い、涙を手で拭い、被っていた掛け布団から少しずつ頭を出して行くと、引き戸を開けて病室に入ってきたのはサングラス姿の恭介だった。
仕事をしているはずの恭介がやってきたことに驚いて何も言わず、ただじっと恭介を見た。恭介も何も言わずに、サングラスを外してシャツの襟元にかけてゆっくりと私のベットまでやってくると、枕元近くにあるパイプ椅子にドカッと座り、足を組んだ後に腕も組んで、私を見る。
恭介の顔はまだ今朝のことを引きずっているといわんばかりの怒っている顔をしていて、ニコリとも笑わなければ、心配をしているような表情さえ浮かべていない。

「………仕事は?」
「お義母さんから連絡貰って、撮影の合間を縫って来たんだよ」
「心配かけてごめん………」
「今回のことは謝っても許さないから。ゆらは俺の言うことを聞かずに俺達の子どもを消そうとしたんだからな」
「………………」
「………………」

少しの間沈黙が続いた。
恭介が本当に怒っていることがわかる。
なんて言えば許してもらえるのか……そればかり考えていた時、恭介は口を開く。

「それで―――覚悟は出来た?」

組んでいた腕を解き、足も戻してきちんと座りなおす。

「え……?」
「母親になる覚悟だよ」
「……………」
「どうせゆらのことだから、突然の妊娠に戸惑って、母親になれるのか不安で怖かったんだろ?だから仕事に逃げたんだろ?」

恭介の言葉が私の心の中を読みとったように明確過ぎて、涙が溢れて零れ落ちる。
恭介の言うとおり、妊娠が確定した時、嬉しさよりもなんとも言えない責任感が私を押し寄せた。自分の母親のように子どもを育てられるのか、子どもの人生を背負えるのか……考えるだけで怖くなって、不安にかられて、紗月のように妊娠を喜べなかった。
そんな時、自分が企画した仕事が通って、それに没頭すればお腹の子どものことは考えずにすむと思って……私は仕事に逃げた。

「ご…ごめん……なさい……」

ぽろぽろと涙が止まらず、泣いた。
私を見ていた恭介は溜息を一つ落とす。

「ゆらは昔からそうなんだよ。物事を難しく考えて逃げることがある。それが後々大変なことになるって、なんで学習しないんだよ。不安なら不安だって言えよ。怖いなら怖いって俺に言えよ」
「恭介の……あんな……嬉しそうな顔見たら……言えない……」
「ゆらの悪い癖だな。相手のことを考えて自分の気持ちを押し殺す。だけどな――ゆらのそれは俺には隠せてないから。何年一緒にいると思ってんだよ」
「…………」
「これからはさ―――小難しいこと考えるなら俺にも話してよ。俺も一緒に考えてやるから。二人で答え出そうよ」
「恭介……」
「だからもう一人で抱え込まないでよ」
「うん……」

私の返事を聞いた恭介は、ここにきて初めて笑顔を見せてくれた。
私の零れている涙を指でぬぐい、「お願いだから……一人で泣かないでね」と言って私の前髪に触れて頭を撫でる。
私はそれに小さく返事をした。

「それでどうすんの?俺達の子どもは生まれたいって言ってるみたいだけど。ゆらはまだ小難しく考えてんの?」
「……………」
「正直、俺も覚悟なんかねぇよ。良い父親になれるかどうかも自信ねぇし。でもさ、初めから完璧な親なんていないだろ。親だって失敗を重ねて成長していくもんなんじゃないの?」
「…………うん」
「俺らもそうやって少しずつ親になって行こうよ。その途中でゆらが躓いたら、俺がゆらを助けてやるから」
「……本当に?」

いつになく弱気になっている私に恭介はクスっと笑みを漏らして、「本当に」と言った。
それから私の手を握るから私も握り返して、私はまた涙をこぼす。

「この子、産んでくれる?」

恭介は、私のお腹辺りに手を乗せると言った。

「…………産む」

じっと私の顔を見て返事を待つ恭介に私は小さく頷きながら答える。
恭介は優しく微笑みながら、お腹に手を置いたままにしてお腹の子どもに向かって言う。

「おまえ良かったな。産まれてきていいってさ。だから安心して腹ん中にいろ。会えるの楽しみに待ってるから」

私にはその姿が微笑ましく映って、思わず笑みがこぼれる。

「心配しなくてもゆらは良い母親になれるよ」
「え……?」
「俺が選んだ女だから」

私は、「なにそれ……」と小さく微笑んだ後に、「恭介だって良い父親になるよ」と言った。

「マジで?」
「私が選んだ男だから」

私たち二人は顔を見合わせて笑った。