二人の大切なもの(2)

結婚しても仕事は辞めたくない。という私の意志を恭介は理解してくれて、私は図書司書の仕事を継続させていた。駅前の総合ビルの中にある出張所の図書館なので、利用者数は割と多い。現在は取り壊されてなくなっているが、以前勤めていた坂の上の図書館は年配の人が多く利用していたが、現在勤めている図書館は学校がある駅にあるせいか、利用者のほとんどが学生だった。その影響か、時々女の子たちから、「スターダストセブンの朝比奈恭介の奥さんが勤めている図書館ってここですか?」と聞かれることもあるし、「職員に朝比奈さんっていないよね」なんていう話も耳にすることも多々あるが、私が職場で旧姓の“山田”を名乗っているかぎり、“朝比奈”は存在しない。

「山田さん。ちょっといいかな」

ある朝、出勤すると手招きされて所長に呼ばれた。
先日テレビや週刊誌に載った結婚記念日デートのことでも言われるのだろうか……と、ビクビクしながら所長が座っている席へと向かう。

「これなんだけどね」

と、言って、机の上にクリアファイルに入っている一つの企画書を引き出しから取り出した。
その企画書は、子ども向けのGW(ゴールデンウィーク)イベントを提案した私の企画書だった。
ここの図書館は学生の利用者は多いが、幼児や小学生の利用者は少ない。何かきっかけをつかんで幼児や小学生にも利用してもらいたい。と思い、GWのイベントの一つとして幼児や小学生向きのちょっとしたミニイベントを企画した。

「はい……・」
「お金がそんなにかからないようにしてくれれば、GOサインだそうと思うんだけど」
「本当ですか?」
「うん。ここの図書館って、子どもの利用って少ないし……こういうイベントをやって子どもの利用者数が上がればいいしね」
「はい」
「とりあえず、今日のミーティングでこのこと提案して、山田さん中心に動いてくれない?」
「わかりました。有難うございます」

単純に嬉しかった。
今まで企画を提案したことがなかったわけじゃないけど、ここの図書館にやってきて自分で企画を出すのが初めてだっただけに嬉しくて、今すぐにでも誰かに報告したい気分にかられた。
まぁ、誰かって……一人しかいないんだけど。

通常の仕事に加えてGWのイベントの仕事も加わり、一気に仕事量が増えて久しぶりに充実感が増していた午後。疲れが出たのか急に体がダルくなり気持ち悪さが増して女子トイレの個室の中で気持ち悪さに耐えながら、溜息をついて便座の上に腰を降ろして少しの休息を取る。狭い個室の中で足を伸ばして、二日酔いの様な気持ち悪さと重たい頭を抱えていると、ジャケットの中に入れていた携帯電話が着信を知らせるように震える。
電話に出ると恭介からで、『妊娠報告の時は連絡くれなかったのに、仕事のことはすぐに連絡くれるんだ』と、企画が通ったことを真っ先に伝えたくて、あれからすぐにメールをした私に恭介は嫌味を一つ零す。

「べつに、そういうつもりじゃないけど……・。嬉しかったから恭介にもこの嬉しさを分かち合ってもらおうと思っただけじゃない」
『俺的には、仕事の嬉しさよりも妊娠の嬉しさを分かち合いたかったけど』
「……………」
『まぁ――でも、良かったじゃん。頑張って企画書作ってたの見てたし、それが通ったってのは嬉しいよな』
「うん。それはね……。あ、それで、イベントの仕事は私が中心として動かなきゃいけないなら、しばらく帰りが遅くなるの。どうしても日常業務の後の仕事になるから。だから少しの間、恭介に迷惑かけるかもしれないけど……ごめん」
『それは別に構わないけどさ……。ゆら、大丈夫なの?最近炭酸ばっかり飲んで何も食べてないだろ』

恭介はたぶんキッチンの隅にスーパーの袋の中に入れて置いてある空のペットボトルに気づいて言ったのだと思う。
ここ最近食べ物があまり欲しくなくて、そのかわり炭酸水が欲しくてたまらない衝動にかられている。

「大丈夫よ。なんとか生きてるし」
『……あのさ、君はもう“山田ゆら”じゃなくて“朝比奈ゆら”なんだからな』
「何言ってるの?そんなことわかってるわよ」
『だったらいいけど。釘差しとかないと仕事優先しそうだから』
「…………」
『とにかく、まだ安定期でもないんだから無理しないでよ。ゆらは集中すると周りが見えなくなるから』
「わかってる」


恭介の心配してくれている声をよそに私は水を得た魚のように仕事に没頭する日々を続けていた。なんとしても初めてやるこのイベントを成功させて、次回へと繋げたくて今まで以上に仕事に精を出していた。だけど、仕事を頑張れば頑張るだけ体がついていかずに動けなくなる体に苦虫を噛んでいる。本当はもっと動きたいのに体がいうことを利かず、コントロール不能になっていくことが嫌だった。

「夢なら早く覚めて欲しい………」

午後9時を過ぎた職場の女子トイレの洗面台で蛇口から水を勢いよく出したまま、疲れと共に容赦なくやってくる気持ち悪さに堪えながら、鏡に映っている自分の顔を見て、疲れきっている自分の顔にうんざりした。
その時、「山田さん」と言って、後輩が入ってきた。

「なに?どうしたの?」

何事も無かったかのように蛇口を閉めて水を止めると、彼女の方を向いた。

「あ……ご主人お迎えに来られてます」
「ああ……そういえば、迎えに来るとか言ってたっけ」
「あの……山田さん」

彼女は少し言いにくそうな感じで、私の名前を呼ぶ。
さっきの独り言を聞かれたのかと思い、「なに……?」と、私は彼女の顔を見ながら言った。

「大丈夫ですか?ここ最近ずっと体調悪そうだし……それに顔色もあまりよくないですよ?」

私が妊娠したことはまだ誰にも告げていなかった。
この仕事を任されている以上心配かけさせたくなかったし、気を使われて自分が動けなくなるのが嫌だったので、とりあえずこのイベントが終わるまでは隠し通そうと決めていた。

「心配してくれてありがとう。でも、大丈夫だから」
「何か手伝えることがあったら、遠慮なく言って下さいね。この企画に携わっているメンバー全員、この企画成功させたい思いで溢れてますから」
「ありがとう」

私が笑うと彼女もまた笑顔を見せてくれた。

閉館している図書館に恭介が迎えに来るのは今日が初めてではない。時々仕事が早く終わった日や休みの日は迎えに来てくれていて、その度に職員の若い女の子たちが色めき立つ。私から見るとただの30過ぎた男にしか見えないけど、世間から見ると“スターダストセブンの朝比奈恭介”というフィルターを通して見られているようで、近づきたいけど近づけず、遠巻きに恭介を見ている姿が可愛かった。
女子トイレから出た私がフロアへ行くとまさにその状態で、キッズスペースであぐらをかいて絵本を呼んでいる恭介の姿を受け付けあたりから後輩の女の子たち3人がじっと見つめていた。その光景が檻の中にいる珍獣でも見るかのようで面白い。

「……どうしたの?」

と、3人並んでいる彼女たちの後ろから声をかけた。

「山田さん。ヤバいですよ。キョンのオーラ今日も半端ないです。キラキラしてます」
「キョンが絵本読んでる。可愛い……」
「写メ撮りたい」

と、興奮気味にも関わらず、恭介に聞こえないような小さな声で私に言い、一人の女の子が携帯電話を取り出したので、「あ――ちょっと、それはごめん」とニッコリ笑って言って止めた。

「ですよね。すみません。ちょっとテンション上がってました」
「でも、山田さんいいなぁ……。キョンと一緒に暮らしてて」
「キョンと一緒に寝たい。腕枕されたい。甘い言葉をささやかれたい……」
「あんた、キョンにすっぴん見せられるの?」
「ああ……ダメだ。すっぴんは見せられない」

女の子たちの声はさらにヒートアップしていくと、さすがに恭介も気がついたみたいで、「ゆらぁ――。終わったぁ――?」と私の方を見て言った。
こっちを見ただけなのに、女の子たちは「名前で呼ばれたい」だの「オーラが眩しすぎて直視できない」だのと言ってまた騒ぎ始める。
そんな彼女たちが気になったのか恭介は、「なんの話して盛り上がってんの?俺にも教えてよ」と、恭介が目の前に現れて彼女たちにニコッと微笑む。
彼女たちはピタッとおしゃべりをやめて無口になり、恭介はその態度を見て、「え?なに?どうした?」と3人の顔を見て言ったが、3人は恥ずかしがって何も言葉を発しなかった。
そんな彼女たちの態度が可愛くて小さく微笑んでいた時、「ゆら、顔色悪くない?」と、私の顔を間近で見た恭介は心配そうな表情を浮かべて私の両頬に手を添えて言う。

「悪くないわよ」

と、言いながら私の顔に触れている恭介の手を下へ降ろした。

「ゆら、ちゃんと食べれてる?炭酸ばっか飲んでるんじゃないだろうな」
「心配しなくても大丈夫だから」
「炭酸ばっか飲んでたら栄養摂れないんだからな」
「はいはい。わかってるから。そんなことより、帰る支度してくるから先に駐車場行って待ってて」
「ええ〜一緒に行こうよ。俺、一人で駐車場行けない」
「人前で変なこと言わないで」
「なんだよ。相変わらず冷たいなぁ」

恭介は話を変えられて不満そうだったが、近くにいた3人の後輩たちが私たちを見ていたことに察して話をやめた。
恭介が図書館を出て行った後、私たちの会話を聞いていた後輩の一人が、「キョンに顔触られたのに平然としていられる山田さんが凄い」と言う。

「ドキドキしないんですか?あんな間近で見つめられてたら……私ならきゅん死にです」
「…………」
「甘えてるキョンにも萌えない?」
「萌える萌える」
「っていうか、山田さん。キョンに冷たすぎです。もっと優しくしてあげて下さい」
「そうですよ。あんな甘えてるに……可哀相ですよ」
「……………」

毎日あんな感じだとうんざりするのよ?と言おうとしたが、飲み込んだ。
スターダストとしての恭介のイメージって凄いなぁ……と改めて感心してしまう。

「それよりも、本当にここ最近山田さん顔色悪いですよ?大丈夫ですか?」
「うん……大丈夫」
「手伝えることはなんでもするので、ホント遠慮なく指示して下さいね」
「ありがとう」

図書館があるビルの駐車場から出て10分経った頃、車の揺れが微妙に気持ち悪くて車酔いにでもなったかのような気分に襲われていた。それを紛らわすために乗車する前に自動販売機で買った炭酸飲料を口に含んだ。
これを飲んだからって気分が良くなるわけでもないけど……
少しお腹の辺りに違和感を感じた。お腹に手をあてて確認するもそれがよくわからない。
だけど……なんか変な感じがする。

「……どうした?」

恭介は信号が赤に変わって車を止めると、何も話さずお腹に手をあてていた私に気がつき、助手席に座っている私を見て言った。

「ううん。なんでもない……」
「お腹痛いとか?」
「ううん……違う」

私はお腹にあてていた手を離した。

「だったらいいけど……」
「……………」
「なぁ、いつもこんな時間まで仕事してんの?」
「なんで?」
「だってさ、この時間に電車乗って帰って来るんだろ?」
「うん、まぁ……」
「大丈夫なの?」
「恭介ホント心配しすぎ。これぐらい平気だってば。それにこの仕事が終われば定時に上がれるし、少しの間だけだから……大丈夫」
「大丈夫大丈夫ってこの間からそればっかり」
「そんなことないわよ」
「あるよ。言っても聞かないんだろうけど、俺としては無理しすぎないで欲しいんだけどね」

信号が青に変わり恭介は車を動かした。
私の仕事が忙しくなって恭介自身の仕事も忙しくて、私との時間もままならないから、会えない間のことが心配でいつも以上に口うるさくなっている。
恭介ははっきりと口には出さないけど、たぶん……私がいつも以上に仕事をしていることを快く思っていないと感じていた。

「……………」
「あ、そうだ。今日実家に電話して報告したら、すげぇ喜んでたよ。やっぱりなんだかんだ言っても孫が生まれるのは嬉しいんだな。お義母さんたちも喜んでただろ?」

恭介は重くなった空気を変えようと話を変えて、ハンドルを握りながら嬉しそうな顔をして言う。

「あ――……まだ報告してない」
「え?」

恭介は驚いたみたいで私の方を一瞬見た。

「忙しくてまだ電話出来てないの」
「…………」
「……また時間見つけて連絡する」

恭介は何かを言いたげな横顔をしていたがそれを飲み込んだのか、少し黙りこんだ後に、「……早くしてあげなよ。喜ぶから」と言った。
私はそれに静かに、「うん……」と返事をした。